壱.茶陶




茶陶とは、陶磁器で製作された茶道具のこと。

茶道具とは、読んで字の如く「茶で使う道具」です。

色々なものがあり、一般の人には馴染みのないものが沢山あります。 お茶を飲むための「茶碗」はよく知られていますが、 他にも清らかな水を入れておく「水指」、 抹茶を入れておくための「茶入」、 よごれた水を捨てるための「建水」など沢山のものがあります。 陶器でないものも多く、抹茶をすくう茶杓、茶を点てるための茶筅、湯水を扱うための柄杓などは竹製です。 湯を沸かす釜などは鉄製ですね。

「茶の湯は、第一、仏法を以て得道する事なり」~千利休~

いろいろな道具がありますが、 茶道はその始まりからして仏教的要素を根底に持っているため、 辞典で云うところの「道具=仏事で用いる用具」という意味を強く持っています。

茶道の原型は中国宋時代の禅寺における飲茶の風習にあり、 日本での茶道大成者"茶聖"千利休は「臨済宗の禅僧」です。 この当時の禅僧は最先端の中国様式に精通した知識人であり、 その卓越した能力を以て戦国大名などに指導をする立場に在りました。

千利休は商人の出身ではありますが、大徳寺との繋がりも深く、最終的に僧となり、 秀吉の相談役となった人物です。武田信玄や今川義元、 伊達政宗など禅僧に指導を仰ぐ大名は多く、大名による茶道もまた、 やはり禅僧の指導によるものと考えるのが自然でしょう。

茶道の形成された時代は、総人口の数割が毎年飢饉で亡くなるという痛ましい時代で、 日本人はほぼ全員が仏教徒。 死が身近なものであった時代、信仰も非常に深いものがありました。 茶道はそんな時代の産物。 当然のことながら、仏教色があるのは、当然の成り行きなのです。

さて。

茶道具の製作において、最も大切なことは「茶道の精神に沿うこと」 です。茶道の精神と云いますが、それは仏教的な道義が根本です。 より良い人間として、どうするべきなのか。より良い道具とは、 どうあるべきなのか。これが、最も大切なことです。

「禅茶の器物は、美器にあらず、宝器にあらず」~千宗旦~

より良い道具として在るべき姿。それが茶道具の目指す姿です。 一般的な美術・芸術作品のような「美」や「個」を目指さない。 そういったものとは、方向性が全く違うのです。

たとえば、花入。その主役は誰でしょう。


答えは「花」です。花入だけで終わらないのです。

茶道具としての花入が「在るべき姿」とは「花を引き立てる名脇役」です。 花入は主役ではありません。花を殺すような作品群は、いくら花入の形をしていても、茶道具として「失格」です。 花の良さを引き立てるものが「茶道具としての花入」です。




これが「和敬清寂」の「和」です。

さて、茶碗ではどうでしょう。水指ではどうでしょう。


「道」と名のつく伝統のものには、こういった「人としての在り方」を問うものが多く、決して「形」や「技術」を伝えるだけではありません。

なぜ、その形なのか。

なぜ、その技術を使うのか。

「伝統を進める」とは何か。

「伝統を守り伝える」とは何か。

「伝統」と言いながら、単に形だけを、単に技術だけを残し、 何かしらの箇所にそれを使うだけなら、もはやそれは「商売上のうたい文句」です。 それらしい言葉を並べただけで伝統が成立するなら、何の苦労もありません。


「円虚清浄の一心を以て器とするなり」~千宗旦~

「伝統」の研鑽を積むのは、多大な苦労を伴います。

「人としての在り方」とはいいますが、 何が正しく、何が誤っていて、時々刻々、感性も足りなければ 思いやりの深さも無いまま、全く分らぬことばかりです。

少しでも、より良く在ることが、茶道具の製作には根底となります。

歩みの遅いながらに。少しづつでも前に進めるようにと願いながら。 日々の製作をさせて頂いております。

陶工 吉村祐